• 真夏の一番茶。美作番茶の製造現場を訪ねる
    岡山・美作[小林芳香園]小林将則さん<後編>

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    [小林芳香園]の茶畑・作業場から、車で数分のところに大きな茶工場兼事務所がある。昼を過ぎ、作業に一旦キリがついたところで、小林さんと我々はそちらに向かい、昼休憩を取ることになった。

    バイクが趣味だという小林さん。自慢の愛車に乗り、我々を先導してくれた

    用意してくれたご飯を食べながら、小林さんが小林芳香園を継ぐことになるまでの経緯をまず訊ねた。

    三兄弟の次男であった小林さんは、当初自分が家業を継ぐことになろうとは考えていなかった。子どもの頃に家の手伝いをしたことはあったが、そもそもお茶自体が好きというわけではなかったし、自分でお茶を淹れたこともなかったという。だから大学3年生の途中まで、大学での研究に関連した仕事に就くのだろうと自分の将来設計を何となく描いていた。

    しかし、その計画はある日の兄弟との会話によって変更を余儀なくされる。兄に家業を継ぐ意思がないことがわかったのだ。そうなると、小林さんか弟が家業を継がなければ、江戸時代から続いてきた小林芳香園が父の代で無くなることになってしまう。当時、弟は自動車の専門学校に通っていた。ここで小林さんの腹は決まった。

    「じゃあ、僕が継ぐしかないかなと。これまで繋いできた家の歴史が途絶えてしまうのがもったいないと思ったんです」

    不意に訪れた人生の岐路をあまりにもあっさりと受け入れたように感じる。穏やかな語り口の小林さんだが、それ以降後継としての自覚を持ちお茶の勉強を本格的に始め、お茶の世界の広さ、深さを知るようになっていく。

    3年間のお茶修行

    「3年経ったら戻ってこい」

    父親からそう言われ、大学卒業後は実家に戻らずに3年間のお茶修行の旅に出た小林さん。まずは東京・日暮里の日本茶専門喫茶[茶遊亭]で店舗スタッフとして働いた。また、そこで働きながら表参道の[茶茶の間]のセミナーにも通い、多様なお茶に触れるようになる。

    「それまで、深蒸しの濃い水色のお茶ばかりを飲んできたので、初めて飲んだ浅蒸しのお茶には衝撃を受けました。[茶茶の間]で飲んだ『秋津島』というお茶はすごかったですね。圧倒的な透明感の中に深い味わいが詰まっていました。また[茶遊亭]で出していた八女茶も旨味が強く、これまで飲んだことのあるお茶と全く違っていたので、お茶の奥深さを改めて実感したのを覚えています」

    [茶遊亭]で1年間働いた後、同店からの紹介で次は八女の製茶工場で働かせてもらえることになった。八女では畑作業から袋詰め、イベント出店まで、1年半の間様々な業務を経験させてもらったという。そして修行期間の最後の半年は全国各地のお茶カフェや販売店を回る旅をし、お茶についての見聞を広めた。

    こうして3年の修行期間を終えて、実家に戻ってきた小林さん。小林さんが継いだことで変わったことの一つは、イベントへの積極的な出店だ。2017年に東京・青山で開かれた「TOKYO CRAFT MARKET」を皮切りに、様々なお茶イベントに参加するようになる。きっかけとなったのは修行時代に培った人脈だ。

    「東京で働いていた頃、[Satén japanese tea]の小山和裕さんと知り合ったんです。『TOKYO CRAFT MARKET』は小山さんからお声がけいただきました。初めての東京のイベントに美作番茶だけ持って行ったので、最初は怖かったんですけど、参加してみたらみなさん優しくて。それから自信がつき知り合いも増えて、いろいろなイベントに参加するようになりました」

    今年も美作番茶を作り終えた秋以降に東京や名古屋のイベント出店の誘いが来ているという。全国的には有名なお茶どころとはいえない岡山の、さらに山奥の限られた地域でつくられている“地方番茶”が大都市圏で知られるようになった意義は大きいといえるだろう。

    小林さんは「岡山の田舎で地方番茶をメインにつくっている僕らが、そうした都市のイベントに出店できるのはありがたいことです。本当に出会う方々に恵まれました」と感謝の思いを口にする。

    今年阪神梅田本店で開かれた日本茶フェスでは[売茶中村]の中村栄志さんなど、同世代の方と一緒になり大いに刺激を受けたという
    小林さんのもう一つの趣味である観葉植物たちが事務所に並んでいた。植物を愛する心は、地道な作業が求められるお茶づくりにも向いているのだろう
    今年6月に公開された岡山県美作地域を舞台にした映画『風の奏の君へ』では、お茶のシーンの監修を小林さんが担った

    煮汁と太陽がもたらす美作番茶特有の“照り”

    束の間の昼休憩は終わり、作業を再開することに。

    作業場に戻るころには、先ほど煮出した茶葉の粗熱がちょうどとれていた。それを今度は屋外に敷いたシートの上に広げる。真夏の炎天のもと、およそ1日〜1日半ほど乾燥させるのだ。1時間に1回ほど、乾かしている茶葉を熊手でかき混ぜ、全体が満遍なく乾くようにする。

    混じった枝がパキッと音を立てて折れるくらいに水分が抜けたら完了の目安

    時間は14時20分ごろになっていた。小林さんが悩ましそうな顔で、空と手元のスマホを交互に見つめている。

    「向こうの空が急に暗くなってきましたね。雨雲レーダーを見たら、雨雲が発生していますね。今年初の夕立が来るかもしれません。果たしてどうしたもんかな」

    雨に濡れることは絶対に避けたいが、降らないうちは乾燥させておきたい。そのせめぎ合いの中で小林さんはしばし考え込んでいた。まもなくして判断を下す。既に乾燥が完了している前日からの茶葉は作業場の中に入れ、まだ乾かしている途中のものについてはシートを畳み込み、雨が降っても当たらないようにすることにした。いつ雨が降り出すかわからない状態のため、取材に来ていた我々も急いで手伝う。

    とりあえずは雨に当たらぬよう避難させたが、このままでは作業が中断して製造に遅れが出ることになる。地面に座り、雲の動きをじっと眺める小林さん。そうすると数分後、隠れていた太陽が雲間から姿を現し、光が地上に降り注いできた。

    「お!」

    小林さんは立ち上がり、それまでの不安そうな表情が一気に和らいでいく。雲はさらに動き、晴れ間が大きくなってきた。完全な晴天とまではいかないが、どうやら雨は降らなそうだ。小林さんは作業場に戻り、昼休憩の前に鉄釜で煮ていた茶葉をまず取り出す。その後、鉄釜の煮汁をジョウロに入れていく。いよいよ美作番茶作りは大詰めの段階に入ってきた。

    乾燥中の茶葉の上に、ジョウロで熱々の煮汁をまんべんなくサーっとかけていく。かけた煮汁は30分ほどで乾く。その後、茶葉をかき混ぜ、再度ジョウロで煮汁をかける。また乾いたら同じようにかき混ぜ、煮汁をかける。こうして三度、煮汁をかけることで、茶葉は煮汁でコーティングされ、美作番茶独特の風味、そして唯一無二の“照り”が生まれる。

    生葉と乾燥が進んだ茶葉。並べてみると色も質感も香りも大きく変化したことがあらためて感じられる

    煮汁が乾いた茶葉をその後工場に持っていき、焙煎し味を整え、茎や枝などの長さも切り揃えることで「美作番茶」は完成となる

    今日一日、美作番茶づくりに密着する中で、改めて日本茶とは何なのだろうか、という思いが頭をよぎった。

    江戸時代に煎茶の歴史が始まる以前から、この地域でつくられ飲まれていた美作番茶。今は緑色のお茶こそが日本茶というイメージとなっているが、地域の生活に溶け込み、日常のお茶として古くから庶民の間で飲まれてきた地方番茶もまた、他の国にはない“日本の茶”と言えるのではないだろうか、と思った。

    しかし、かつては自家消費用に各農家がお茶づくりをしていた海田(かいた)地区でも、ここ数年で多くの農家が茶づくりを行わなくなったという。地域には[小林芳香園]の他に製茶園がいくつかあるが、地域に根差した美作番茶の文化は少しずつ失われつつある。だからこそ、「やるべきことはまだまだあります」と小林さんは語る。

    「美作番茶をもっと地域で盛り上げていきたい思いがあります。例えば徳島の阿波晩茶や愛媛の石鎚黒茶は、地域の人たちが積極的に自らの土地のお茶文化を盛り上げています。あと、長らく受け継いできた美作番茶の製造方法も、もっと現代風にアップデートできる部分があると思うんです。いろいろなところで美作番茶を取り上げてもらえる機会は増えましたが、このお茶文化を残していくためにまだまだ改善できる部分はあると思っています」

    煮汁をかけるという美作番茶独特の作法を実際に見たことで、なんだか達成感のようなものが生まれてしまったが、小林さんの作業はまだ終わらない。この後、3回目の茶葉の仕分けをし、また鉄釜に茶葉を投入する。我々は帰りの便もあるため、ここでお暇することに。

    聞くと、1日に3〜4回ほど作業のサイクルを回す。普段ならもう一度茶葉を煮ないといけない。部分部分で手伝うだけだった我々だが、暑さの中での作業で終盤はだいぶ口数も減っていた。あらためて、小林さん、ひいてはお茶をつくる全ての人たちの日々の仕事に尊敬と感謝の思いが湧いてきた。

    地方の小さなお茶屋が生き残っていくために

    [小林芳香園]の茶畑は全て美作番茶用のため、お茶づくりはこの夏のシーズンだけ。そのため新茶の時期は他の茶農家の手伝いに繰り出すことができる。

    「美作番茶以外のお茶もつくりたい気持ちはもちろんあるのですが、時間も足りないのと、設備も揃ってないので難しいんです」

    そうした様々な制約がある中で、小林さんは地方の小さなお茶屋がこれから生き残っていくため、何かできることがないかを考え続けている。最後に、これから展開予定の新事業について語ってくれた。

    「BtoB向けに、お茶セミナーの事業をこれから展開していく予定です。お茶は日本の大切な文化であり、おもてなしの精神を表現するコミュニケーションツールでもあります。それを未来の人材に伝えていくためにも、お茶を教える講師という存在はこれから重要になっていくと思います。これなら自分一人でもできますし、各地域の小さなお茶屋さんも挑戦できる事業の形だと思うので、そういった方々のロールモデルになるという意味でもこれから頑張っていきたいです」

    家業として脈々と受け継がれた美作番茶づくりだけではなく、広い視点でお茶文化のことを考え行動し続ける小林さん。一日中作業をする横で、いろいろな質問を投げかけても丁寧に答えてくれたその穏やかで誠実な人柄の裏にある、強い使命感とこの仕事に対する誇りが伺えた。地方番茶を単なる伝統にしておくだけではなく、その文化を次代にしっかり繋いでいくために小林さんはこれからどんな物語を紡いでいくのだろうか。その話を聞きにこの場所をまた訪れてみたいと思った。

    小林将則|Masanori Kobayashi
    1991年生まれ。1862年から続く小林芳香園の6代目。大学卒業後、東京の日本茶専門喫茶と福岡・八女の製茶園で茶づくりを勉強した後、実家に戻り家業を継ぐ。岡山県美作地域を舞台にした映画『風の奏の君へ』(2024年6月7日公開)では、お茶のシーンの監修を務めた。

    小林芳香園
    岡山県美作市巨勢2156-1
    8:00〜17:00/土日定休
    instagram.com/kobayashihoukouen

    Photo by Yuri Nanasaki
    Text by Rihei Hiraki
    Edit by Yoshiki Tatezaki

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