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お茶はメディアアート。メディアアーティスト・落合陽一さんが語るお茶というカルチャー<前編>
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。 建物の中を地響きのような、あるいは凄まじい突風のような、あるいは電車が通過した高架下に響くような音が響き渡る。この音は何だろう。そんな思いに頭が囚われると、また別の音が鳴り響く。今…
2024.10.04 INTERVIEWCHAGOCORO TALK
岐阜県高山市の日下部民藝館を舞台に、9月14日より開催されたメディアアーティスト・落合陽一さんの特別展「どちらにしようかな、ヌルの神様の言う通り 円環・曼荼羅・三巴」。そのオープニングセレモニーとして開かれた「計算機自然神社」の創建式を、自らが宮司として参加し、さらに神様に茶を奉じる献茶式も執り行った落合さんに、引き続きお茶についての話を伺う。
——改めまして、今回の「どちらにしようかな、ヌルの神様の言う通り 円環・曼荼羅・三巴」は素晴らしい展示でした。神仏習合というテーマが日下部民藝館という空間と見事に調和していると感じました。
落合 そうですね、まさに空間がメディアとして上手く作用しているような気がします。ただ、神仏がある空間を媒体として何か事を起こすこと自体は、日本が古来からやってきていることでもあります。神社仏閣では春は花見をしたり、秋は紅葉を見たり、とてもメディアアート的です。それらの花木は元々自然にあったわけではなく、わざわざ植えているわけですから。あえていっぱい植えているし、現代でライトアップするようになったのは必然です。金屏風にしてもそうですし、神社仏閣は昔から美術館的な場所です。
——創建式の後に行われたギャラリートークの中で、落合さんがお茶とメディアアートの親和性を語られていたのが印象的でした。
落合 茶はメディアですね。マジでメディアアートっぽいですよね。だってまず茶室はインスタレーションじゃないですか。展示空間(=茶室)に入って、茶人が用意した掛け軸を見て、お花見て、花入れみて、そんな意味のある空間の中で茶碗が出てきて、体験としてお菓子食べてお茶を飲んで…空間の中には音もあれば光もあるのでインスタレーションそのものなんですよね。茶室だけじゃなく、襖絵とか屏風絵とか浮世絵とかも空間の中にあるもので、つまり日本人は500年ぐらい体験そのものを作るっていうことをやってきているんですよね。たぶん、千利休の時代に今のメディアアートを見せても「未来では光るようになるのか」って言われるだけなんだと思います。
——落合さんはこれまでに「
落合 メディアアート考える時にお茶はメディアアート感全開なので、私もメディアアーティストとして茶室を作ってみたいと思っていました。
最初に作ったのはガンダムのプラモデルの廃材で作った「可塑庵」です。素材は廃プラスチックですけど、廃材で茶室を作るというのは千利休の時代からやられていること。「ヌル庵」はレンズと変形ミラーとスピーカーによって構築された茶室です。ヌルは「何もない」を意味するコンピュータ用語ですが、掛け軸がない空間で、壁もヌルヌル動いていく茶室でした。最近は紅花染の織物で四方を覆った移動茶室「ヌベルニ庵」を作りましたが、モチーフとしては豊臣秀吉の「黄金の茶室」があります。あれも運搬可能な組み立て式の茶室でした。それに紅花染は紫外線に弱いのでヌベルニ庵は暗い空間に置かなければならないのですが、恐らく黄金の茶室も暗い場所に置いて蝋燭の光を灯し、黄金の輝きを際立たせるシーンで用いられたと思うんです。
自分が茶室を作る時には、茶のコンテクストを解釈し、茶室の空間の意味やメディア装置としてのあり方を追求した、“メディアアーティストならではの茶室というのはどんなものか”を常に考えています。
——お茶は長い歴史もあり、完成された型もあります。これまで落合さんが手がけてきた茶室はどれも革新的なスタイルですが、それはメディアアーティストとして、いかに茶室の型を打破していくかを常に模索しているということでしょうか。
落合 今言った三つの茶室は全て二畳の茶室で「待庵(千利休がつくったと伝わる茶室、国宝)」と基本的には間取りは同じです。柱の位置も同じような位置だし、躙口も同じ位置なので、フォーマットとしてはほとんど変わっていない。だけど素材が変わることで、茶室での過ごし方が変わる、という感じです。「ヌベルニ庵」は布で囲われているので透け透け。「ヌル庵」はスピーカーから爆音を流したり止めたりして静寂と喧騒という対極の状況を作り出し、喧騒があることで静寂をより強く感じるという逆説的なアプローチをとりました。
そんな方法は利休の時代にはできなかった。でも、別にやってもいいじゃない、と思うんです。
——過去には落合さんが手がけた茶室で、釜の代わりにデロンギのケトルを使ったそうですね。
落合 「可塑庵」ね。プラスチックの茶室なので、火や熱が生じるものは使いたくなかったんですよ。
——そうして現代の技術やアイデアで代替できるものもある一方、これは代替できないと感じる茶道の要素はありますか。
落合 茶筅と茶碗かな。ヌル庵の展示で出したお茶は人間ではなくて、電動式の茶筅で点てたんです。あれは邪道だとみんな言いますが、たいていのうまい人が点てるより美味しい。超便利だし、よりクリーミーになってあれはあの味として美味しいんですよ。茶筅が泡立て器だったらたぶん成立してなくて、茶筅は茶筅だからよいと思うんです。茶筅通し(点てる前に茶筅にお湯を通す準備のこと)もちゃんとしています。
茶碗も、室町時代や江戸時代の良い茶碗を使うとやっぱり良いなと思います。樂さん(16代吉左衛門)とも先日その話をしましたが、味が変わるというよりも、手の収まりが良いんですよね。
——必ずしも人の手で点てられたお茶の方が良いというわけではないというのは少し寂しい感じもしますが。
落合 一長一短ですね。伝統的な茶席の場で電動茶筅が出てきたらおかしいですけど。レストランとか裏で作ったりする場では悪くない装備だと思います。機械を使ったら新しい味にはなりますね、でもそれはそれ、私はいいことだと思ってます。コンテンポラリーには美味しいじゃんっていうのはいっぱいあっていい。
でも、お客様の目の前で亭主が機械で点てたらちょっと面白いと思いますけどね。え?! 機械のまま点てるの? ばばばばーっとか言って。ギャグとしては成立しますね。
——落合さんは多くの茶人の方と交流があるそうですが、メディアアーティストという立場から、茶人の方達に対してどのような印象を持たれていますか。
落合 アーティストよりキュレーターっぽい感じがしますね。美術展を作る人たちに近い。利休もキュレーションが多いです。ただ、自分で作ることもある。茶人は何かを作るんだけど、自分が作れないものはキュレーションしてくることが多いので、キュレーターとアーティストのちょうど中間地点ぐらいに立つ人たちだと思ってみるのがいいのかなと個人的には思ってます。
——お茶関係の方たちを取材させていただく中で、お茶の価値を伝えるのに苦労されている声を多く聞くのですが、落合さんは現在の日本のお茶文化をどう捉えていますか。
落合 「ヌル庵」の展示をやった時、魅力を伝えていくという意味では現代アートよりは難しくないと思ったな。美術館だと1500円とか2000円の入場料を払っても、持ち帰れるものって何もないじゃないですか。現代美術同様に、お茶も掛け軸とか茶器とか分からないことはあるけれど、美味しいものが出てくる分だけOKっていうのが僕の最近のポジティブな見方です。
雑誌「淡交」の連載でも書いたんですけど、うちの息子も茶道を習っているんですね。それで「パパ、茶道って本当にいいもんだよね、あの美味しいお菓子が毎回食べられるんだもん」と言うんです。それで「うん、そうだね」と返したら、「でも本当に良くないことがひとつだけある。あの緑のどろっとしたやつだけは出さない方がいい。苦くてどうしようもない」と言ってきて(笑)。すごい、天才だなこいつはと思いましたね。
——かわいらしいですね(笑)。でもそういうふうに素直に受け止めることがまず大事な気がします。
落合 結構本質を掴んでいる気がするんです。茶席で出される抹茶も大人になって味覚が変われば美味しいと感じるものですが、小さい子供からすると、お菓子の方が美味しいというのは確かにその通りだと思います。だから濃茶が苦くて飲むのが嫌だという人、例えば外国の方などには茶席で抹茶ラテを出すのもいいと思うんですよ。
落合 以前サウジアラビアに仕事で訪れた時に、現地の人から「抹茶ってなんであんなに美味しいんだろうね」と言われたんです。でも話を聞いていくと、彼が言っていたのはホイップクリームが乗っかった甘い抹茶ドリンクのことだったんですね。自分の知っている抹茶と違うなと思いながらも、それはそれでいいと思いました。何が言いたいかというと、その甘い抹茶を茶室で飲みたいという人がいれば、それ用のお点前を用意すればいいと私は思っているんです。
今、利休が殿様に「うちの娘が抹茶ラテを飲みたいと申しているんだ」と言われたら、何しただろうなという視点で考えるのが結構重要だと思う。サウジアラビアの国王が来て「茶室で抹茶ラテを飲みたい」と言われたら、どうやって抹茶ラテ点前を作るかって、結構面白くないですか? 一丁やってやるかと考える茶人は多いと思う。カルチャーってそういうものだと思う。
——伝統も大事ですが、もっと大きな視点でお茶に興味がある人を受け止めることも必要ということでしょうか。
落合 もっと変なカルチャーと混ざってお茶やればいいんじゃないかと思います。敷居をあえて高くするのも良くないし、そんなに低くしなくてもいい。抹茶ラテ点前を出せるようになれば十分だと僕は思いますけどね。
ただ、牛乳をあの火と水のカルチャーの中にどう組み込むかですよね。牛乳をあの間取りの中のどこに置くと哲学的に正しいのかをみんなで考える必要はありますね、真面目に。でも、100年したら絶対点ててるって抹茶ラテ。当たり前の様に点ててますよ、きっと。
葉蓋だって茶道の歴史からすれば割と新しいものですよね。あれが風流だとされているんだし、水指に使っていいものだって多くあります。「見立て」の考えがあるお茶は、元来とても自由なものという印象があります。
そろそろインタビューの時間は終わりに近づいていた。
こちらが投げかける問いに、流れるように言葉を紡いでいく落合さん。
普段はなかなか聞くことのできない落合さんのお茶についての眼差しはとても自由で新鮮かつ、温かいもののように感じた。
もっと落合さんのお茶への思いを聞いていたいと思ったが、約束の時間も迫っている。
最後に「落合さんにとってお茶とはどういう存在か」と訊ねてみた。
落合 自分にとってのお茶?なんだろうね……。なんか、ずるいことを言えば日本人に生まれてラッキーだと思いますね。だってお茶を淹れたら、もてなされてるんだと世界中の人がなんとなく理解するじゃないですか。イスラム教徒にとって礼拝は欠かせないものだということを我々が知っているように、ジャパニーズティーセレモニーのことは、世界的に知られている。そんな文化が日本にあるのは非常にラッキーだと思うんですよね。ずるくないことを言うと、展示空間がいっぱいあるって思いますね。だからこそこれまでの歴史が積み上げてきたカルチャーにはリスペクトを持ちつつも、ふざけたところはふざけてますって言うのが大切で、遊び心はあった方がいいですかね。あとは伝統的な時には一応伝統的なことをちゃんとやるのが重要だと思うんです。今回の献茶式も実際にやってみて大変さがわかりました。伝統っていうのは保守がいて初めて成立するけれど、本来保守はガラガラポンって全部カルチャー無くしちゃうってことをしないってだけで、革新的なこともやるはずなんですよ。
ここで名残惜しくもインタビューの時間は終了となった。
伝統をリスペクトし、実践した上で遊んでいくこと。これが茶という文化にとっても大事なことだと我々は落合さんの言葉から受け取った。そして落合さん自身が、それを体現するかのように革新的な茶室を作り続けているのは、少し背中が押される思いも感じた。
落合さんはこれからもお茶をモチーフにした作品を作り続けるだろう。今回の取材で落合さんとお茶の意外な関係性やお茶に対する思いを知れたことで、よりこれからの作品が楽しみになった。100年後を待つことはできないが、またお茶の文化に大きな変化が見えた時、改めて落合さんに話を聞いてみたい。そんなことを思いながら、日下部民藝館を後にした。
落合陽一|Yoichi Ochiai
メディアアーティスト。1987年生まれ、2010年ごろより作家活動を始める。メディアアートを計算機自然のヴァナキュラー的民藝と捉え、「物化する計算機 自然と対峙し、質量と映像の間にある憧憬や情念を反芻する」をステートメントに、研究や芸術活動の枠を自由に越境し、探求と表現を継続している。筑波大学准教授。2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)テーマ事業プロデューサー。近年は茶文化への深い興味を持ち、活動や展覧会には頻繁に茶のモチーフが出現している。
yoichiochiai.com(公式サイト)
note.com/ochyai(note)
日下部民藝館特別展「落合陽一 どちらにしようかな、ヌルの神様の言うとおり:円環・曼荼羅・三巴」
開催期間:2024年9月14日(土)〜11月4日(月祝)
開催時間:10:00〜16:00
開催場所 日下部民藝館(岐阜県高山市大新町1-52)
kusakabe-mingeikan.com(日下部民藝館ホームページ)
Photo by Tameki Oshiro
Text & Interview by Rihei Hiraki
Edit & Interview by Yoshiki Tatezaki
Produce by Nanami Kanai
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内容:フルセット(グラス3種、急須、茶漉し)
タイプ:茶器
内容:スリーブ×1種(素材 ポリエステル 100%)
タイプ:カスタムツール