• 後ろ指を指されない会社を目指して、愚直にお茶づくりを
    鹿児島・霧島[西製茶]西利実さん<後編>

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    圧倒的なロジックと徹底した生産管理から生まれる、極上の有機抹茶 鹿児島・霧島[西製茶工場]西利実さん<前編>

    鹿児島県北部、霧島市の山間の道は霧で満ちていた。宮崎県との県境を跨いで広がる霧島連山があるこの地域は、霧深い気候と厳しい寒暖の差からお茶の生育に適しており、全国でも指折りの名産地として知られている。 霧を掻き分けるように…

    2024.10.18 INTERVIEW茶のつくり手たち

    鹿児島・霧島の[西製茶工場]が誇る高品質な有機抹茶の秘密に迫るため、社長の西利実さんを訪ねている。前編では、碾茶工場を見学し、先端を行く製造理論と品質管理に圧倒された。後編では、茶畑でのこだわりを紐解いていく。

    この日は生憎の天気ではあったが、霧が立ち込める中に広がる茶畑の景色は幻想的。取り組み先を含めると現在所有する茶畑は75ヘクタールにもなり、今でも毎年拡大を続けているという

    木は木のように育てる

    [西製茶工場]は、1954年、初代・西弘志さん(西さんの祖父)が買葉業者として創業したのが始まり。1985年からは、西さんの父である二代目・西喜実さんが自社直営農園を始め、一から自分たちで山を切り拓き茶畑を作ってきた歴史がある。

    「父はだいぶ頭がいい人で、お茶づくりに全てを懸けているような人でした。昔のやり方をただ踏襲するだけではなく、理屈が通ることを自分で確認しなきゃ納得いかない性分。だから自分で茶畑を作って納得いくお茶づくりをしたいと、僕が10歳の頃に茶畑の造成を始めたんです」

    霧島の広大な山の中で開墾に最適な土地を見つけては取得し、ユンボやブルドーザーを自分たちでも乗りこなして土地を開墾する。その積み重ねはもうすぐ40年になろうとしている。

    西さんの茶畑を間近で見ると、木の足元からずっしりとしていて力強さを感じた。先端に伸びる芽も美しいが、先っぽだけではなく芯が強いといった印象だ。そんな感想を口々に茶畑に見惚れていると、西さんが語り始めた。

    「うちはとにかく力強い茶畑を作るために、茶の木を“木”のように育てていくことを大切にしています。茶畑というと昔ながらのかまぼこ型をイメージすると思いますが、僕らは扇型に茶畑を作っていくんです。茶畑というのは幼木の頃から何度も剪定して形を整えながら作ります。しかし、僕らは『木は木のように育てる』ことを大事にしているから、基本的には茶の木を植えたら数年間は触らず、どんどん伸ばしてあげる。十分に伸びたら中刈りといって数十センチ刈り落とす。そうすると、枝が上にまっすぐ伸びるようになり、他の茶畑に比べて随分と腰高になる。見てください、首の太い幹が上に向かっているでしょう」

    太い幹から太い枝が広がる。力強いその立ち姿は、盆栽のような美しさすら感じた

    「根っこを意識してはさみを入れる整枝にはこだわりがあります。春の芽を伸ばしていくために必要な栄養は、土からではなくほとんどが貯蔵根と呼ばれる根っこの部分から来ていると考えてます。だから秋口にたくさん養分を貯蔵根に蓄えた茶畑では、美味しいお茶ができていく。最適なタイミングで枝を整えることは、おいしいお茶づくりに欠かせないんです」

    力強い木を育てるためには、土の中で根がどれくらい育っているかを見極めることが重要と語る西さん。目に見えない部分にまで意識を向け理解しこだわりを反映させる。研究家肌だったという先代の面影を想像させる

    設備投資に一切の妥協なし

    畑を見渡して気が付くことはもう一つ。防霜ファンと呼ばれる、背の高い柱の先に扇風機がついたような、茶畑でよく見るあの姿がない。山の中で霜が降りることもあるこの地で、防霜ファンが不要というわけではないはずだが……。

    「うちでは霜を防ぐために、防霜ファンではなく、スプリンクラーを設置しているんです。散水氷結法と言って、茶葉に水滴が付着した状態をキープすることで、茶の芽が0度以下にならないんです。この方法であれば気温マイナス8度くらいまで耐えることができる。安定的にお茶を生産させるためにはスプリンクラーの方が生産性が高いという結論になったのです」

    茶畑のいたるところに頭をのぞかせるスプリンクラー。繊細な管理が必要なので、作業には熟練の技術が必要

    霜害をどう防ぐかは、冬から春にかけて茶農家たちの悩みの種。スプリンクラーの効能を聞くと、どの茶畑もスプリンクラーを採用すればいいのにと思ってしまうが、その設置と管理は簡単なことではないと西さんは語る。

    「スプリンクラーの設置はただでさえ費用がかかる上に補助金がつかない方式なんです。管理も大変ですし費用もかかります。灌水のための設備だって必要です。我々はスプリンクラーを動かすために、溜池を造りました。スプリンクラーひとつとっても相当なお金と労力がかかるんです。でも万全の対策をとることによって、茶葉が霜害を受けず収量のロスがなくなるなら安いもんだと、そう考えています」

    西製茶にはこのような大きな人工の溜池が6ヶ所もある。この規模の溜池で15ヘクタールほどの茶畑をまかなうことができる

    畑の開墾、スプリンクラーなどの機械の設置、それを動かすための灌水作業などなど、およそ“茶農家”の範疇を超えた作業を、西さん始め従業員たちが自ら汗水を垂らして行なっていると聞くと、本当に圧倒的だと感じる。それを親子二代にわたり40年間も愚直に続けてきた結果が、目の前の茶畑であり、冒頭でいただいたお茶なのだと思うと感動すら覚える。

    有機栽培なのに雑草が生えない!?

    再び車を走らせて数分、今度は牛舎にも似た大きな屋根付きの施設へと向かった。

    「ここは堆肥場です。僕らがやっている有機栽培というのは、言い換えれば『微生物栽培』とも言えます。堆肥の中に潜む微生物が有機物を分解することで、茶の生育に欠かせない窒素が生み出されます。ここにあるのは土のように見えるけど、鶏糞や馬糞、竹、草、椎茸の原木など、有機物を混ぜたものです」

    この中に一年分の堆肥があるというが、同規模の堆肥場を計4カ所持っている。堆肥づくりには数年かかるとのことだが、常に先を見据えて、時間をかけるべきものにはしっかり時間をかける

    「この堆肥は作り始めてから大体4年から5年経っていますね。混ぜ始めの頃は発酵作用がすごいので2カ月に一度攪拌していきます。そして3年目ぐらいからはほとんど触らず寝かせて、今はもう匂いもほとんどしない状態になっています。微生物の力はすごいですよ。整枝した時の茶の枝葉はそのまま畑に置いておくんですが、それが数ヶ月経つと分解されて跡形もなくなってしまうんです」

    微生物を最大限活性化させた状態を作るために、堆肥にさらにタンパク質(油粕、魚粕、肉骨粉など)を加える。これを「麹化」と呼んでいる。腐敗にならないように繊細に管理することが必要だが、麹化した堆肥によって「化学肥料なんていらない状態になっていく」

    「もうこれだとね、土が“早く食べたい”という状態になるんです。土壌分解が早まる。すると、雑草も全然生えなくなるんですよ。有機農法をやっている方は草取りが大変だってよくおっしゃいますが、僕らは45ヘクタールの畑で草取りの担当は一人だけなんです」

    後ろ指を指されないような会社を目指して

    次から次へと驚くような事実が出現する。[西製茶工場]でのお茶づくりの姿勢について、西さんは次のように表現してくれた。

    「我々は科学でお茶をつくっているんです」

    そしてその姿勢は、父・喜実さんから受け継いだものがとても大きいと西さんは語る。

    「父は頭がよかったのもありますし、お茶にしか興味がないような人でした。それまで正解とされていた方法にも疑問を持ち、自分のやり方を試して、なぜそうなったのかを全て検証していった人。理屈をつけて、結果を導いて、徐々に今の西製茶のお茶づくりの基礎を作っていきました。僕らの今のお茶づくりは父が生涯かけて作り上げた方法を、さらに応用させて、みんなで管理できるような体制にしていった形なんですよね」

    しかし「親父とは工場で喧嘩ばかりしていました」と笑って語る西さん。お茶づくりにおいては誰にも負けないほどの情熱と理論を持っていた喜実さんからは「しょっちゅう詰められていた」のだそう。しかし、そんな喜実さんは2010年に農作業中の事故で他界。あまりにも突然すぎる別れだった。そして、その瞬間から長男である西さんが跡を継ぐことになる。西さんは当時のことをこう振り返る。

    「もう悲しむ暇もありませんでした。事故の対応をして帰ってきた瞬間から、本当に細かいことまで自分が判断して決めないといけない。当時は毎日寝る時に『今日やらないといけなかったことは全てやったか?』とずうっと考えてしまって、眠れませんでした」

    喜実さんは会社で得た利益はすべて茶園の造成など事業投資に充てていたため、当時の経営状況は苦しいもので、会社には多額の借金があったという。社長に就任した西さんは、会社の借金を返済し、会社として経営を安定させられるよう、頭を悩ませながら奔走した。

    「『父の思いを受け継いでこの場所を守る』みたいな考えではダメだと思って。『これは俺の会社で、潰そうがぶっ壊そうが俺の勝手だ』くらいの気持ちでやらないとうまくいかないと腹を括りました。そこで『10年計画』というものを打ち出したんです。10年後の目標を立てて、それに向かって逆算して、5年後、1年後、明日のすべきことを明確にしていきました。その時僕が立てた10年後の目標は『後ろ指を指されない会社にすること』。そんな会社を作れたら、父へのはなむけになると思ったんです」

    父・西喜実さんの写真

    守りに入るのではなく攻める。そう言わんばかりに、西さんは生産量を増やすことにした。工場の稼働率を上げ、社員の数を倍にすることを決め実現した。さらに茶畑を拡大するため、何十軒もの農家に「畑を譲ってください」と頭を下げて回った。

    こうして社長に就任した直後から類稀な経営手腕を発揮し、就任一年目で借金を返済することができたという。しかし、借金を返せたからといって終わりではない。さらにその次をどうするか考え、さまざまな手を打ち続けてきた。近年は、東京を中心に展開するカフェの立ち上げから支援し、生産から販売までをエンド・トゥ・エンドで行う流れも作り出した。世界的な有機抹茶の高い需要に後押しされ、数百トンもの抹茶原料(碾茶)を製造している。

    そして、周辺地域の茶農家たちとも連携し、周囲の方々の利益にもしっかり結びつけられるような体制を整えている。西さんが立てた「後ろ指を指されないような会社」という目標は十分に達成されたと言っていいだろう。

    「おかげさまで僕らの経営は今順調と言えますけど、お茶業界全体で見たら斜陽産業です。茶農家としてのこだわりを表に出したい気持ちは僕たちも持っているし理解できるのですが、若い子たちや外国の方などカジュアルにお茶を楽しみたいニーズがある中で、農家のこだわりなんてちっぽけなものだとすら僕は思っています。社是にもありますが、『新しい緑茶文化』を創ることが大切。お茶を飲む層を狭めたくないです。だから、抹茶は今世界ですごく需要がありますけど、それにみんなが群がるようなやり方には危機感を抱いています。付加価値のある需要をもっとお茶を売る人たちが作っていくことがカギになっていくと思います」

    今回長い時間をかけて畑や工場を案内してもらう中で、西製茶のスケールの大きな取り組みに終始圧倒された。そして、それらが徹底した実践と理論に基づいていることにも驚かされた。

    さらにそこまでこだわり抜いてつくられたお茶を、西さんは「どんなふうに飲んでも構わない」と言う。お茶が斜陽産業と呼ばれる中で、それが理想的な茶農家のあり方なのかもしれないと思いつつ、方法、規模、姿勢、真似のできない唯一無二のものだとも感じた。そんな西さんから語られる業界への提言は、ズシリと響くものがあった。

    最後に、「後ろ指を指されない会社にする」の次に掲げるべき目標は何か尋ねてみた。

    「次なる目標は特に立てていなかったんですけど(笑)。そうだな……、もう『最後まで生き残る』ってことですかね。もしね、うちが潰れることがあったら、それは日本でお茶をつくる場所が他に無くなったことを意味するぐらいまで。そこまで生き残りたいです」

    霧島の大自然の恵みを活かしながら、常に技術を高め、お茶の価値を世界へ広める。その大きな背中は追いかけるべき存在として、これからの日本茶業界をリードしていくはずだ。

    西利実|Toshimi Nishi
    1975年生まれ。鹿児島県霧島市[西製茶工場]の3代目。1954年、西利実さんの祖父・西弘志さんによって買葉業者として創業された同社は、父・西喜実さんの代で自社直営茶園を開設し、着々と拡大。2000年に有機JAS認証を取得。2005年、碾茶工場建設。2010年、西利実さんが代表取締役就任。

    西製茶工場|Nishi Tea Factory
    鹿児島県霧島市牧園町万膳798
    nishicha.com

    Photo by Eisuke Asaoka
    Text by Rihei Hiraki
    Edit by Yoshiki Tatezaki
    Coordination by Nanami Kanai

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