
お茶からあふれだす アイデアと面白味 [茶箱]岡部宇洋 <後編>
2021.02.12 INTERVIEW日本茶、再発見
- 煎茶
- 東京
福岡市の繁華街・天神から、歩いて20分ほど。赤坂エリアは、地元の人に聞いてみてもやはり、落ち着いた品のある地域と認識されているようだ。赤坂駅(天神駅のお隣りだ)を出て西へと進むと舞鶴公園が見えてくる。黒田長政ゆかりの福岡城跡を中心として、平安時代の外交交易施設「鴻臚館」の遺跡・展示館などを含む、広大な公園だ。
歴史の薫風が心穏やかにしてくれる、そんな土地で実に13年前から日本茶文化を国内外に伝える店が、今回訪れた[万 yorozu]である。
店の中央、シンボリックに鎮座する銅製円炉の釜。それを囲むようにコの字のカウンターが走る。時の積み重ねによる重厚感と洗練された世界観の一方で、入口は大きな採光部となっていて昼間は明るく、木製の梁や柱たちは、むしろほっとさせてくれる雰囲気を醸している。ここに座り、お茶と季節のお菓子をいただくのは、まさに至福の時だ。
株式会社万ヤ 代表取締役の徳淵卓さんは、「万はアウトプットの最後の部分。僕たちは裏方として、お茶というものを日本人がいかに再解釈できるか、海外の方にどれだけ伝えることができるか、ということを考え、残していく活動をしてきました」と語る。店舗ディレクションやブランディング、コンサルティングや人材育成など、日本茶の文化発展のため陰に陽に活動する徳淵さんに、あらためて聞く日本茶のこと。
微笑みながら穏やかに語り始めた徳淵さんのインタビューを前後編に渡ってご覧いただく。
まず、この福岡市の赤坂という地に店を構えた理由を尋ねた。
「なぜ赤坂2丁目という場所にお店を出したかと言いますと、ここには鴻臚館跡というものがありまして。西暦688年から史料に登場する、いわゆる外交施設の迎賓館。迎賓館と言えば聞こえはいいですが、他所から来た目的もわからない人たちを留め置いておく役割でもありました。大陸から船を出すと、海流に乗って必ずここ玄界灘に辿り着きます。大陸から渡って来る人たちというのは、争いや略奪、特に疫病を持ち込むかもしれないですし、すごくリスクが高いわけですが、その一方で渡来人からは高度な文明や文化というものが入ってきて、新たな交流が生まれる。当時の日本人は、大陸の国はすごく発展していて素晴らしい文明・文化を持っていると理解していた。面白いことに、時代は前後しますが、大陸の人たちも倭という島国は神仙が住まう東の果ての蓬莱山だと思い、海を越えて不老不死の仙薬を求める場所だった。ロマンを求めた交流が長年に渡りあったんです。そういった古代からの積み重ねから、交流の入口が鴻臚館になった。日本の高僧や技術者はここ鴻臚館から大陸へ留学に旅立ち、中国の高僧や学者、商人たちもまたこの博多の地から入ってきた。805年最澄が唐から帰朝し、茶の種子を持ち帰ったと伝えられ、つまりここ鴻臚館にお茶が伝わってきた」
[万]は、鴻臚館の南側に位置している。福岡市を東西に貫く国道202号から路地に入った立地は、ほぼ限りなく鴻臚館に近い場所だったのだ。
早くも博覧ぶりに驚かされるが、大陸からの歴史文化を辿ることは、お茶の本質というものを紐解くのに必要不可欠なものなのだった。
「そもそも古代から現代までお茶がどのように、どういうときに飲まれたかを簡単にまとめると、はるか遠い中国神話の中では薬用として伝えられ、“百草の滋味を嘗め、一日にして七十毒に遭う”(百草をなめて毒か薬かを調べ、一日にして七十もの毒にあたった)とされ、その解毒に、荼という植物を用いたと伝えられています。
魏晋南北朝にはすでにお茶の社会的役割があり、茶で客人を招くことが登場してきます。唐代のお茶は団茶が中心。煮茶法や泡茶法が一般的ですが、新たに煎茶法が陸羽によって考案されました。宋代では隋唐の時代にあった煮茶や煎茶を伝承した上で、新たに点茶も生まれ、それまで団茶が主流だったお茶が庶民でも楽しめる芽茶や草茶が多くなりました。
大陸の長い歴史で培われてきた茶の処方ですが、李白や杜甫といった詩人が生きていた盛唐時代にはまだ、飲茶の習慣は一般庶民に定着しておらず、漢詩に登場する茶詩もまだまだ数少ない方でした。中唐時代以降から白居易をはじめ詩人たちは沢山の茶詩を詠み、この時代から茶が禅や仏教・道教と緊密な繋がりを見せ、つまり官僚から庶民へと茶が普及していきつつあったのではと推測されます。
白居易が詠んだ、静かな暮らしと茶と酒にまつわる「即時」と題される茶詩をご存知ですか。
見月連宵坐, 聞風盡日眠.(起きて月を見る夜は幾つも連なり、昼は風の音を聞きながら一日中眠る。)
室香羅藥氣, 籠暖焙茶煙.(部屋の香りは薬の匂いも入れ込み、茶の葉が入っている籠を温め、茶の煙が出る。)
鶴啄新晴地, 雞棲薄暮天.(雨が上がり、鶴は外で餌を探し、日が暮れ鶏はねぐらに帰る。)
自看淘酒米, 倚杖小池前.(酒造りの米を洗う様子を見に行き、杖を使い小池の前までやってくる。)
月を見るために夜遅くまで起きていたので、静かな昼は外の風の音を聞きながら一日中寝ていた、と。三、四句は養生を大事にしている白居易の日常です。丁寧に薬を煎じたり、茶の葉を炙ったりする毎日であるので部屋中に薬の匂いや茶の香りが漂う。そして、飼われている鶴も鶏も主人と同じように自由自在に庭でくつろいでいる。自家製酒のために、米を洗う。その酒造りを監修しているのも白居易です。
月を見ることや風の音を聴くこと、薬を煎じること、茶を炙ること、鶴や鶏の世話、酒造りの見定めなどなどがすべて平凡な日常であり、白居易が淡々とこなしている生活の一部。飲茶もそのなかのひとつであり、特別なものではなかったのではないでしょうか。私はこの閑居な日常の風情と、そこに薬と茶と酒が入っている情景がとても大好きなんです」
史実だけでなく、歴史の中に生きた人たちの暮らしや物の見方にも思いを馳せる語りに引き込まれる。そして、茶の歴史はいよいよ日本へとつづいていく。
「この中唐以降の飲茶文化から日本へと茶が伝えられます。最初にお話ししたように、最澄が茶の種子を、鴻臚館を通じて日本へと運んだ。大陸では宋時代から一般庶民でも飲茶習慣が進み、日本でも明菴栄西が茶の実をたくさん持ち帰り、『喫茶養生記』を説いて献上し、喫茶習慣をふたたび伝えました。
日本において、点茶の作法は貴族・上級官人の嗜みになりましたが、この点茶の嗜みが唐物道具と相成り、能阿弥らが書院造りの広間で茶会をはじめ、書院の茶を学んだ村田珠光が侘茶をはじめ、武野紹鴎から千利休へと唯一無二の茶の湯の世界が確立され、日本独自の点茶の作法と相成る。そして茶の湯は武家社会のステイタスとなっていくというわけです。
煎茶趣味が流行しはじめたのは、町人経済が活性化した江戸中期以降です。商人たちは身分関係なく学問を積めば立身出世できるのではと、その漢文的な自由さに憧れ、漢詩漢文の多くを嗜みました。それゆえに日本の現実からやや離れた文人趣味が広まっていくことになります。
近代になるともっと自由な茶のあり方が大切にされ、茶の湯と煎茶趣味もそれぞれ新しく生まれ変わっていくことになりました。おもてなしの“茶の湯”は現代まで代々引き継がれ、暮らしの中にある質素な“常の茶”もまた進化を遂げながら飲茶文化を守りつづけている。
今では東洋のみならず世界中のみなさんが嗜む茶。だから、お茶って懐が広いですよ。一席3万円以上するお茶会から、100円ちょっとのペットボトル茶まで。現在では幅広い層がそれぞれの楽しみ方で飲用します。
私たちがやってきたことは“茶の湯”と“常の茶”の間。どれだけこの間を埋められるか。ここでお店を始めた当初、13年前は『お茶で代金を取るのか』というお叱りをいただいていました。しかし近年、万の他にも新しくお茶のお店や商品が増えてきたということは、たくさんの方々に日本茶の再認識が広まり、日本茶でお代をいただける時代がやっとスタートしたという感じがします」
「お茶って自由でいいと思うんです。高級なものから安いものまで受け入れる懐が深いものですので。そこで、私が大事にしているのは、『お茶そのもので商売しない』ということなんです。私たちは『お茶を淹れる』とは言わない。『お茶を汲む』という言い方をしています。これは“あなたの心を汲みます”ということ。会話の中から、相手がどんなお茶を飲みたいのかを汲んであげることが、その時間を豊かにしていくんだと思うんです。お茶そのものだけではなく、お客様が過ごす空間、時間にこそ価値があると考えています。
一人ゆっくり読書をしたい方かもしれないし、お休みもなく働いていた方が和菓子とお茶を静かに楽しみに来られたのかもしれない。非日常の“時間を楽しみたい”という人に、品種がどうというような蘊蓄がいるかな、と考えてみる必要があると感じることがあります。
お茶というものが何かというと、それは“その人の時間に寄り添うもの”。茶が持つ栄養素などそういった身体の健康についてはたくさん情報があるけど、もっと心を健康に豊かに穏やかにする時間を大切にしていかないといけないと思うんです。お茶は元々薬として用いられていました。今、ビタミンCやカフェインを摂ろうと思ったら、サプリかなんかで補うことはできる。でも、なぜ今もお茶をこれから先も愉しんでもらわなきゃいけないかというと、やっぱり心に効く作用だと思います。お茶で心が穏やかになったり、幸せな気分になるって素晴らしいことだと思うんですよ」
煎茶を一杯差し出し、「趣味は何ですか?」と尋ねる德淵さん。我々が答えるのに合わせて、何度も「いいですね」と頷きながら、気持ちよく引き出してくれる。お茶はもちろん、おいしい。
「僕は古美術や現代アートが好みで、博物館や美術館、史跡巡りが休日の過ごし方です。美術館に行って観賞後にお茶を愉しむって最高に幸せなんですよね。趣味の時間をいかに幸せに、さらに楽しくさせるか。そういうものが万という空間で育まれていったらいいなと思います。『よろず』という意味合いとしても、大陸から人と文化が集まったこの地の歴史を踏まえて、人のあらゆる気持ち、ここに来られるあらゆる人の心にお茶で寄り添っていきたいという思いを『万』という一字で表しております」
歴史を紐解きながら、それが今の私たちに何を意味するかを解釈し、本質的に大切なものを今に生きる人々に伝える。それを、講義やお説教のようにするのではなく、お茶一服をきっかけにした豊かな時間として。[万]のエッセンスの一端を感じられたような気持ちになりながら、徳淵さんの話に集中する。德淵さんが大切にしている言葉があるというのだ。
「スタッフたちにもよく話すのですが、『現在・過去・未来』という三つの要素で僕らは成り立っているということ。先ほどから話している古典的なものは過去。そこから学ぶことはたくさんあります。未来というのは、新しく追いかけたいもの、よりよい日々を思い描くもの。それで、過去と未来ってお酒がおいしいんです。昔を思い出しながら呑むお酒ってしみじみするし、未来を語るお酒も楽しい。でも自分は、現在をアテにお酒を飲むとなかなか進まない時があります。やはりそこはお茶なのですよ。喫茶なんです。今の自分に一息つく、自分を見つめ直す、立ち止まってみる、ということができるのがお茶だと思うんです。お茶を飲んで立ち止まって『今どうあるべきか』『もう少し良い方法はないか』とか、『あぁやっちゃったな』『これからどうするか』などと思いながらお茶を飲む。そのときのお茶は、もう未来に繋がっているんです。過去と未来をつなぐ中継地点としてお茶の時間。これって大切だよね、とスタッフとお茶を飲みながら語り合います」
たしかに、今の自分や状況に向き合いたい瞬間にはお酒は遠慮したくなる。逆に、お茶を飲んでいると、あぁちょっと焦っていたな、とか、あれ忘れていたな、といったように今という地点に立ち止まることができる。そして、立ち止まることで、次の閃きが得られることもあるかもしれない。
德淵さんの語りを聞けば聞くほど、この洗練の空間の裏に潜むものをもっと知りたくなっていた。[万]が大事にしていること、すなわち、日本茶文化を考える上で大切なことは何か。お話は後編につづきます。
德淵 卓|Suguru Tokubuchi
株式会社万ヤ 代表取締役社長。[万 yorozu]茶司、茶方會 草司。1977年生まれ。バーテンダーとしてキャリアをスタートし、福岡市のホテルのフード&ビバレッジマネージャーを12年に渡り務めたのち、2012年、福岡県福岡市中央区赤坂にて[万 yorozu]を開業。2019年、イギリスの50 Bestによる新カテゴリー「World Best 50 discovery」に選出された。日本茶文化を各方面に伝える「茶方薈」の草司(理事)を務めるなど、文化発展のため多岐にわたる活動を行う。
IG @yorozu.suguru.tokubuchi
万 yorozu
福岡県福岡市中央区赤坂2-3-32
092-724-7880
12時〜24時、不定休
*予約優先につきお電話にて事前予約か当日お席確認のご連絡を。
yorozu-tea.jp
IG @yorozu.tea
Photo by Tameki Oshiro
Text by Yoshiki Tatezaki
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内容:フルセット(グラス3種、急須、茶漉し)
タイプ:茶器
内容:スリーブ×1種(素材 ポリエステル 100%)
タイプ:カスタムツール