吉本ばなな連載『和みの想い出』第1回
2020.02.14 COLUMN
この連載をしていた期間は人類未曾有の、ウィルスによる影響があった期間で、ある意味、戦時中に似ていたかもしれない。
そんなとき、いつも思い出す。
知人の芸術家、島袋道浩さんが、震災のときに屋台カフェを作ったこと。
水がない、物資がない、家が壊れた、避難所に行く行かないとみな悩み事がいっぱいで、犯罪も増えて、どうにもならないことがたくさんある中で、人々はみなお茶を飲んではこう言ったという。
「ああ、おいしかった。すごくカフェに行きたかったんだ、ありがとう」
そう、たいへんなことがあって、それどころではないときほど、一杯の飲みものは、心に大きな力と良き思い出をくれるのだと思う。
島袋さんは、「この世がほんの少しでもいいところになるために、作品を創っているんだ」とよく言っているが、その通りだと思う。
嗜好的な飲みものは、たとえそれがペットボトルに入っていても缶に入っていても、人の人生に優しいピリオドを打つアートなのだ。
それはきっと、茶室で密談を交わしていたかもしれない千利休の時代でも同じなのだと思う。緊迫した状況であっても、人はお菓子を食べて、お茶を飲んだ。しつらえの美しさに時を忘れ、お茶を淹れる主人の所作に見惚れてゆっくりした時間の流れを感じたのだろう。
スタイルは変わってしまっても、その「ほっとする」感覚、連綿と続いている日常の雑事を忘れることができる、新しいエネルギーを得られることは全く変わっていない。
お湯を沸かし、手間ひまをかけて飲みものを作る。
そんなに時間をかけたのに、それはあっという間に人の中に消えてしまう。
でも、それは消えてしまったのではなくて、豊かな時間に姿を変えただけだ。
きれいな水やお湯を見たとき、きれいな氷を見たとき、人はふっと自然に思いを馳せる。その時間は全部、自然に寄り添う小さな旅なのだ。
私が件の日本茶カフェで働いていたとき、お店の中で別れ話をするカップルがたまにいた。けんかしているだけの人たちは感情が熱くて、飲みものを味わう余裕がない。でも、別れ話の人たちは、言葉が少ないからゆっくりと、ちゃんとお茶を飲んでいくことが多かった。
うわあ、別れ話だね、お茶を持っていきにくいね、でもせめてこのお茶が悲しみを少しでも癒しますように…と働く私と同僚が小さな声で話しながら淹れたお茶の味が、たとえ彼らには伝わらなくても、心の片隅にその光のようなものは届くような気がしていた。それがお茶を自分以外の人に淹れるということなんだなあと。
そして店にいらしてくださった高齢の方たちのこと。この人たちが人生で飲むお茶はあと何杯なのだろう?と思うと、自ずと真剣になった。
もしもいつもあの気持ちをどこかに持っていられたら、それは堅苦しいのでも窮屈なのでもなく、とても自由なことだという気がする。
人が人に淹れるお茶には、そういう宝ものみたいな、天使みたいな一面がある。
吉本ばなな
1964年東京都出身。1987年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞し作家デビューを果たすと、以後数々のヒット作を発表。諸作品は海外30数ヶ国以上で翻訳、出版されており、国内に留まらず海外からも高い人気を集めている。近著に『吹上奇譚 第二話 どんぶり』『吹上奇譚 第三話 ざしきわらし』がある。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。
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