萎凋香がないのは日本茶だけ?
狭山茶専門の製茶問屋でありながら、萎凋香のお茶のポテンシャルを追究しつづけ、ここ10年はさらに台湾茶に学んだ微醗酵茶の製造も行う[備前屋]の清水敬一郎さん。前編につづいて萎凋にまつわるお話を聞いていく。
「当然、紅茶も、烏龍茶も、萎凋から始まります。スリランカに行ったときに、どの工程が一番大事ですかって聞いたことがあります。すると『萎凋で70%決まります』との回答でした。台湾では日光萎凋から始まります。中国茶をよく知っている人に聞くと、中国緑茶は萎凋という言葉こそ使わないけど、最初にお日様に当てる工程があるそうです。ですから、世界中でいろんなお茶がつくられていますが、日本茶だけが萎凋っていうのを拒否しているお茶なんです。その分、日本茶はとても手のかかる作り方をしているのも事実ですが。ただ、昔の日本人は体験として萎凋を知っていたと思うんです。というか、防ぎようがなかった。ですから、ちゃんとメカニズムとして理解されていれば、萎凋というのがきちんとした工程になっていた可能性もありますよね。なかなかその辺は想像するしかないわけです。ただ、モノの本を読むと、江戸時代から『蘭の花の香りのするお茶』っていう表現が出てくる。それはおそらく萎凋香のことだと思われます。それから埼玉県には戦前から戦後にかけて太田義十さんという茶業試験場のトップだった人がいるのですが、その人は萎凋香を肯定していて、ある品評会で萎凋香のあるお茶を評価するときに大いに揉めて、結局「欠点ではない」という自身の意見が認められたという話が残っているんです。その一方で、戦後直後には萎凋香が欠点という見方があったのは間違いありません」
醗酵茶づくりの空間へ
お茶は自らが持つ酵素によって醗酵するという、微生物などを伴う一般的な醗酵とは異なるメカニズムだ。その醗酵の度合いによって、紅茶や烏龍茶など世界各地では様々な香味のお茶がつくられる。不醗酵茶が基本である日本において、清水さんはどのように醗酵茶づくりを行なっているのだろうか。
萎凋についての膨大な知識をいただきながら案内してもらったのは、先ほどの製茶工場の脇に作られた醗酵茶作りの工房。
斜めに傾いた銀色の円筒状の機械は「殺青機」という、いわゆる釜炒りをする機械。さらに併設された小屋には「揉捻機」と、これまた少し改造を施した「中揉機」がある。
「生葉を、殺青機で釜炒りをした後に、揉捻機で揉みます。この揉捻機、「望月式」って言うんですけどね、今日本では作ってないんです。台湾で作ってまして、殺青機と揉捻機は現地から輸入しました」
台湾では専用の乾燥機があるのだが、それは大きすぎて今のスペースには収まらないのだという。そこで、清水さんが使っているのが日本の中揉機という機械。ただ、その最も重要なパーツと言っていい「より手」を外すというカスタムが施されている。清水さんはその理由を次のように説明してくれた。
「ひとつには茶葉を勾玉状に成形するためです。最初それがどうしてもできなかったんです。もっとこう、開いた形になってしまう。そうすると、茶葉が壊れやすかったり、体積が大きいので袋に入れづらいんです。もう一つは作業時間の短縮です。乾燥機の能力不足のため、最終の乾燥工程に90分ほどの時間が必要でした。そこで中揉み工程を増やすことで、30分程度に短縮することができました」
おそらく日本ではここだけのセッティング、備前屋式と言ってもいいかもしれない。
「おかげさまで微醗酵茶も年々販売量が伸びています。それなので、生産量を増やすことを考えなきゃいけないんですけど、そういう意味ではいい具合に、軌道に乗ってきたかなと思っています。この中揉機でやっている『再乾』という工程は、おそらく九州の玉緑茶をつくっている工場には導入されていると思います。だから、本当はあちらを訪問して勉強したいのですが、どうしても忙しい時期が重なりますし、今は特に行けない状況ですからね……」
こうした工夫や研究の姿勢に、パイオニアとしての精神を感じる。清水さんを魅了した台湾茶の本場にも、ここ2年行けていないと悔しそうに話す清水さんだった。
「2014年から毎年、2019年まで台湾に行ってたんです。4月の上旬に行って、大体4泊、5泊してきて、向こうで製造を手伝ったり、教えてもらったりするようになってから、自分でもいいものができるようになったかなって思うんですけど、去年、今年は行けてないんですよ。今まで経験してないことを向こうで教えてもらったりとか……例えば、向こうで烏龍茶だけじゃなくて、紅茶や緑茶をつくっているのを見ると、自分でもやってみたいという欲望が出てくるんです。この2年で、そういうふうなものが枯渇してきちゃっているので、そろそろ行かないとですね」
台湾で学び、日本で営む
台湾では桃園という場所にある有名な茶農家と縁があり、醗酵茶について親切に教えてもらっているのだそう。そのインプットを持ち帰って、日本茶の問屋としてさまざまな取捨選択をしながら微醗酵茶づくりに勤しんでいる。
台湾らしさあふれるこちらの機械は、微醗酵茶用に使用している焙茶機。電熱線からの熱で、せいろのような要領で下から温まる。メッシュの底網から茶葉が落ちてしまわないように、和紙を敷いてある。そうしないと電熱線で茶葉が焦げ、煙臭がついてしまう。
「実際に台湾でこれを使っている工場は見たことないんです。私がいつも勉強に行っているところは、もっと合理的なものを使ってやっています。これを頼むときにも、『もう今時こんなの台湾で使ってる人いないよ』って言われたんですけど」
この機械のいいところは、茶葉の乾燥に風を使わないところ。萎凋香を逃さないような火入れをイメージしたとき、この古めかしい機械が適役だと感じた。
醗酵茶と日本茶の勝手の違いは、茎などの選別にもある。通常の日本茶では、茶葉の緑色と茎の白色が色彩選別機で判別されて効率的に分けることができるが、醗酵によって茶葉の色相が変わっているため、手作業で選別をしなければならないという。この写真にあるのが「ゆめわかば」手摘み・微醗酵茶の荒茶500g。こちらは清水さんの母が半日で選別をしたのだそう(手摘みではなくハサミ摘みなどの摘採法だと、茎などが混じりやすいためさらに時間を要する場合もある)。
40〜50分ほど、静かに熱を通していく。片面だけが焦げないように、途中で撹拌するのだが、その時に漂う香りはふつうの日本茶のそれとは異なる。完成に近づくにつれて、幸せそうな笑みがこぼれる清水さんの表情が印象的だった。
「深夜を過ぎても、まだ揉んでいる日があるんです。寝不足じゃないですか。でもね、ここで釜炒りや乾燥作業をしていると、新たな香りが生まれてくるんです。その中にはとびっきりのものが含まれている場合があるのです。柑橘系の香りがしてくると最高です! 初めてオレンジの香りが出たときにはもう嬉しくて嬉しくて。今年はブドウの香りがするときがありました。(香りを)独り占めしているみたいで、贅沢な気分になります。温まってくるとねぇ、茶葉に閉じ込められていたものが目醒めてくるみたいな感じがするんです。やっぱり火入れする価値って間違いなくあると思いますし、とっても幸せな気分になるんです。それから、この茶葉はうちの茶園で手摘みをし、完成するまでずっと一緒に過ごしているので、我が子のように愛着があります」
お茶づくりの深層
再びテイスティングルームに戻って、火入れしたての微醗酵茶・手摘みのゆめわかばをいただく。火入れ前と後を飲み比べさせていただくと、やはり、火入れ後の方が香りが開けた印象で面白い。火入れにこだわる製茶問屋としてのノウハウが、醗酵茶にも活きている。
また葉質の見極めというのも大切だという。日本の茶葉品種は、台湾などのそれと比べて葉肉が薄い傾向があるのだそう。飲み水の質の違いもある。つまり、台湾の醗酵のやり方をそのまま日本でやってもうまくいくとは限らない。清水さんは茶葉自体の違いを意識した上で、醗酵時間を短めにしたり撹拌を少なめにしたり調整を重ねてきたそうだ。話を聞くと、想像以上に多くのロジックや仮説検証がある。
「お茶つくっていると、けっこう待つ時間があっていろんなことを考えるんです。哲学者になれるかもしれません」
笑って答える清水さん。
ゆめわかばに火入れをして、香りが立ち上がったときの幸せそうな表情を思い出す。
お茶づくりが楽しくてたまらない。言葉でなくても伝わってきた。
「萎凋をやっていたら、日本を飛び出しちゃったっていうのが正直なところですね。茶という飲料はつくり方や品種によって変化があって、びっくりするくらい魅力的な香りに出会うことがあります。日本茶の世界に萎凋香がないっていうのは、何て言うべきか……こんなに素晴らしい世界に足を踏み入れないのはもったいないと思います。萎凋香の世界は間口も広いし、その奥行きもすごく深くて、いろいろと挑戦したくなってしまいますね」
萎凋も醗酵も、そこに垣根はなく、お茶づくりの深層へと潜ることを楽しむ清水敬一郎さんとの貴重な時間だった。
清水敬一郎|Keiichiro Shimizu
明治元年創業、狭山茶専門の製茶問屋[備前屋]の代表取締役。昭和40年代から、先代が萎凋香煎茶の製造・販売に取り組み始め、現在では「萎凋香専門店」として日本茶の新たな可能性として萎凋香を追究している。2011年からは、台湾のお茶づくりに学び、微醗酵茶の製造を手がける。
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Photo: Taro Oota
Text: Yoshiki Tatezaki