吉本ばなな連載『和みの想い出』第1回
2020.02.14 COLUMN
チャイというのは単なる「ミルクの入ったスパイスティー」ではない。
全てがミックスされて新しい飲みものに生まれ変わったすばらしい何かだと思っている。
ミルクだけでは出ない風味と甘みの妙。
お茶の葉がうんと高価なものだと香り高すぎて味が違ってしまう。できればつぶつぶになっている屑茶を集めた安いチャイ用のアッサムメインの葉をたっぷり使っているといい。入っているクローブやカルダモン、シナモンは丸ごとごろっとポットで煮出されているといっそういい。
私の家の近所にもお気に入りのチャイがある店がいくつかあり、私の心の中だけのチャイマップがある。
いつも飲んでいると慣れてしまうから、ほんとうに疲れたときだけ飲むごほうびみたいな感じで飲むようにしている。そのくらい大好きなのだ。
一度だけネパールに行ったことがある。
今はもっと違う雰囲気なのだろうけれど、ちょっと都会を離れると道が全く舗装されていなかった。ものすごい砂ぼこりとか、牛の群れとか、崩れかけた建物やお寺だとか、そんな混沌の中を歩いていたら、いつのまにか顔がほこりで黒くなる、そういう感じだった。
市場で布やかごなど買って、あまりにも足が疲れたしほこりで鼻がかゆいから、少し休もうと思って私は道端のチャイ屋でチャイを買った。大勢がそこで飲んでいるのは、場所もいいけど味もいいのだろうと思ったのだ。
インドやネパールでは列車の中で買える紙コップのチャイさえおいしいので、基本外れというのがない。それこそが人々の暮らしに空気のように自然に根づいた味なんだと思う。日本で飲む日本茶が、一煎目であれば合宿専用旅館のものでさえうんとおいしいのと同じことで。
市場での買いものの値切り競争や、やたらに金を要求してくる子どもたちの群れをかわすことにそれなりに緊張していたのだろう。チャイ屋の横の長い石に腰かけて荷物をしっかりと前に抱えながら飲んだ熱々のチャイ、使い捨ての素焼きコップに入ったそれは、考えられないくらいおいしかった。
濃厚なミルクの味と、濃すぎるくらい濃いお茶の味と、大釜で煮られた大量のスパイスと、頭痛がするくらいの甘さと。
飲みながら私はネパールの青空を眺めた。
地面に目を移すと視界には明るい茶色の土、積み木みたいな簡単な建物、行き交う人。市場で売られている様々なスパイスや、色とりどりの衣類、かご、器。
同じく市場で買い物をしていた旅の仲間が、たまに目の前を通っていく。
座っている私に気づくと笑顔で手を振ってくれる。
やがて友だちが合流してきて、となりでチャイを飲み始める。
全ての光景が、その日そのときしかないなにかに輝かしく縁どられていた。
そんな暑く乾いた気候の、ミルクとスパイスが豊富な環境の中で自然に生まれた特別な飲みものだから、素焼きのコップの中でこそちょうどよく味や温度が保たれるのだろう。
チャイを飲むときはいつも、あのチャイの面影を心のどこかで追いかけている。
吉本ばなな
1964年東京都出身。1987年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞し作家デビューを果たすと、以後数々のヒット作を発表。諸作品は海外30数ヶ国で翻訳、出版されており、国内に留まらず海外からも高い人気を集めている。近著に『切なくそして幸せな、タピオカの夢』『吹上奇譚 第二話 どんぶり』など。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた単行本も発売中。
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